〜「ロシアの瞳」のその奥に〜
本日は結構渋いロシアン・プロ。でもロシアだからと言って安易に一括りにしてはいけないのかも。
本日演奏する3曲について、その作曲家達は何を、どう見て曲作りをしたのでしょう?
(いつもながらのやや強引な解説:Tuba 稲葉光亮)
瞳・その2 チャイコフスキーの「ロメオとジュリエット」へ
瞳・その3 ボロディンの「交響曲第二番」へ
瞳・その1 現代に通ずる死の予感を直視したラフマニノフの「死の島」
この曲の題材となったのは19世紀スイスの画家A.ベックリンによる同名の絵でした。1907年、ロシア音楽の祭典に参加するためパリを訪れたラフマニノフが、たまたまその地でこの「死の島」を見たことからインスピレーションは発露します。その印象を彼は帰国してから膨らませ、曲は一気に書き上げられました。彼はこの絵に何を見たのでしょうか?
挿絵の通り、静寂の海にぽっかり浮かぶ異様な島影と、背を向けた立ち姿で船に乗る人物?が配置されるある種不気味な画風は、英雄的存在の孤高の死を描いたものとされていますが、20世紀に生きる我々は、むしろ激動と暴走に明け暮れた今世紀の行き着く果てをそこに見出しかねません。実はベックリンの「死の島」は同じ題名で5枚の違った絵が描かれ、ラフマニノフもその複数の絵を目にして曲想を固めて行くのですが、面白いことに彼が最初に出会い、且つ最も感銘を受けた素材が、実は原作のどれでもない、銅版画による白黒の複製であったことは大変興味深い事実です。「もし最初に実物を見ていたら、おそらく『死の島』は作曲されなかっただろう。」と本人が語るように、絵として完成された「死の島」に音楽を寄せたのではなく、「死の島」というモチーフの彼方に見えた世界によってラフマニノフの音楽創造が爆裂的に増殖したと言えます。
こうして生まれた交響詩「死の島」(1909年完成)は、ラフマニノフを語れば必ず挙げられる交響曲第2番(作品27・1907年)と映画「シャイン」でも有名になったピアノ協奏曲第3番(作品30・1909年)に挟まれた、言ってみればラフマニノフ的「名曲の森」の時代に位置し、彼の円熟ぶりが十分に窺われます。それなのに演奏機会が極めて少ないのは、単に名前のせいなのでしょうか?この曲には、ラフマニノフと聞くとついつい思い浮かべてしまう、歯のしみるような甘美さ(失礼、筆者だけかしら?)の存在は希少で、むしろ反対の面からロマンティシズムを追究した、彼の別の一面が垣間見られます。この曲の深みにはまればはまるほど、今世紀の清算に苦闘する我々は痛い所を突かれたような気にさせられないでしょうか。ラフマニノフの鋭い瞳が、この作品を書きながら今世紀の暗黒面を予見してしまったと想像するのは行き過ぎでしょうか。因みに、この「死の島」が作曲されてわずか5年で第一次世界大戦が勃発し、更には、銅版画の原作となった第3版「死の島」(1883年作)が、第二次世界大戦中、あのヒトラーに所有される史実も妙な想像を掻き立てるのですが…。
曲は8分の5拍子という不安定な拍をベースに、霧のかかった陰鬱な景色を醸し出して始まります。5拍子と言っても「2拍+3拍」と「3拍+2拍」が入れ替わる徹底した不安定さなのです。これは冥界に死者の魂を運ぶ渡し守が、舟の櫓を漕ぐ様を表わしていると言います。彼方から聞こえて来るのは、金管楽器による「怒りの日」、弔いの歌でしょうか。こうした静かな単調な反復が、知らぬ間に深い静寂と不安の世界=島に引き込んで行くのです。
暫くすると曇天に幾筋かの光が射すように、死者の生前における甘美な思い出が映じられます。一時の安らぎ。懐かしさ、温もり。
しかしそれは間もなく否定されます。はっと我に返る。自分の立つこの地は一体何だ?静寂な曲想は次第に堅牢な構造の中で重層的なハーモニーの展開を繰り返し、増幅された狂気が身に迫って来ます。廃虚と累々たる屍に囲まれて、極まる孤独・襲いかかる恐怖。それはクライマックスに絶叫となって木霊し、突然、運命の斧によって容赦なく断じられるのです。
断じられた魂はしばし虚空をさまよいます。音楽にも殆どスピードが無くなり、ヴァイオリンの独奏が慣性に支配される空気の中をゆらゆらとたゆとう様が印象的です。再び彼方で響く「怒りの日」、しかしそれは哀れみの情感より、むしろ冷たく機械的な響きのようで。救いは全くありません。
そして冥界の渡し守が、再び不器用に櫓を操りながら島を離れて行きます。孤独の島を鏡のように映じてしいんと静まりかえった海。「生」のない世界が遠ざかって行く…。
失われかけた自然と人間性の回復を願って努力しつつ迎える21世紀に向けて、この曲はどんな問いを投げかけてくれるのだろう……そんな思いを抱きながら、本日この曲はかなり神妙に演奏されるはずです。暗く始まり、恐怖をぶちまけてまた暗く終わる――演奏会の初っ端からこんな曲やるなよなー、と思われるのもごもっともです。どうかこの一曲でお帰りにならないことだけを祈念致します(冗談抜きで)。
参考文献:『ベックリーン【死の島】−自己の英雄視と西洋文化の最後の調べ−』(三元社)
Franz Zelger著/高阪一治訳
大作曲家への道を着実に歩みつつあった30代のチャイコフスキーが、シェイクスピアでお馴染みの悲劇を音楽化した意欲作。彼は当時台頭しつつあった国民楽派(ロシアの民俗性を音楽に込めようと推進する作曲家たち。本日紹介するボロディンもその一人)との親交を急速に深めており、この作品化に当たっても、30才の時に受けた、国民楽派の中心人物・バラキレフの勧めが大きなきっかけとなっています。また「幻想序曲」という彼独自の標題音楽は、ドイツやフランスのロマン派音楽を範と仰ぎ、音楽表現を磨く過程で生まれたものだと言います。つまり彼の瞳は原作の文学的ドラマ性と、音楽における標題性&ロシアの民俗性追究という三者の高次元の融合を見据えていたことになり、この曲を初期の傑作として後世まで称えさせることになるのは、その“目線の鋭さ”が果たし得た必然的な結果と言えるのです。
またこの曲の第一稿が1869年に上がってから1880年の決定稿に至る約10年の間にチャイコフスキーは大きく成長します。特に不朽の名作『エフゲニー・オネーギン』(1878年)に至るまでの数々の歌劇創作や、大満足の見聞を重ねたイタリア旅行(1874年)などによって“目が肥えた”のは間違いなく、従って改訂された「ロメオとジュリエット」の洗練度アップは想像に難くありません。
曲は原作冒頭の口上を反映するような重々しいテーマで幕を開けます。そして次第に高まる緊張感を経て、モンタギュー家とキャピュレット家の長恨の対決が劇的に描かれて行きます。絶えない諍いと続出する犠牲者に、街はいつも平和の時を知らされません。
しかしその争いの中にロメオとジュリエットの初々しき恋物語が花開くのです。劇場の舞台が転回するように、曲の中でも絶妙のタイミングで濃密な至福の音楽にすげ替わります。しかしそれも束の間、純愛は再び両家の抗争の荒海に浮沈を繰り返し、最後には哀れ、この世に勝るものなき悲劇の運命に呑み込まれてしまうのです。
終局、ロメオとジュリエットの悲しき遺骸を前に「裁かれたのだ!」と厳かに語る領主の声に、両家の者は失ったものの大きさを知り、ロシア正教の調べが響く中、深い懺悔のうちに物語は大団円を迎えます。壮大な物語を濃い音楽要素と抑揚に富んだ秀作に込めた物理的時間は僅か20分なのです。
参考文献:『チャイコフスキー』(新潮文庫)森田稔著 他
実はボロディンの本職は化学者。大学でたくさんの生徒を抱える有能な研究者で、且つ人格的にも優れた先生だったので、彼の家はいつも客で賑わっていたと言います。
そんな環境の中で「私はあくまでも日曜作曲家」という立場を謙虚に守りながらも名曲を次々と生み出した彼は、先述したロシア国民楽派の所謂「ロシア五人組」の一人に数えられ、ロシア近代音楽の発展に大きな足跡を残しました。
そんな彼によって1873年に作曲されたこの曲は、チャイコフスキーの交響曲第4番よりも先に世に出(初演は1877年)、ロシア作曲家による交響曲の最初の成功作として高く評価されています。
【第1楽章】
「勇者の集い」とも呼ばれる、猛々しさ爆発の楽章です。冒頭の重厚なテーマが様々な調や速さで繰り返し提示され、正に群雄割拠の様相を呈します。更にめまぐるしい拍子の転換とテンポの変化で、ロシアの猛者達の戦いが見事に描かれています。例えば中間部で「タッタカタッタカタッタカ、タタッタッタ…ガツン!」と聞こえる?ところは、馬に乗って一騎討ちをする場面だとか。馬の疾駆、重々しい剣のぶつかり合い、飛び散る閃光が目に浮かんだら、演奏が上手く行ったと思って下さいませ。もっとも、演奏者は舞台で目から火花を出しているかも知れませんが。
【第2楽章】
第1楽章のテーマを変奏します。1拍子のプレスティッシモ(ムチャクチャ急げ!)という恐ろしいテンポの中で、オーケストラの様々な楽器があちこちでメロディーの断片を受け継いでいきます。練習しながら誰かが「鬼ごっこだよまるで。」と言っていましたが、正にそんな感じ。ひるんで後ろに追い着かれたらゲームオーバーです。ならば、中間部のアレグレットは言わば「安全地帯」でしょうか(何ですそれ?)。
【第3楽章】
昔日の吟遊詩人の歌をモチーフにした、ゆったりした情緒あるメロディーが落ち着いたテンポで流れて行きます。ハープをバックに歌われる冒頭のクラリネットやホルンのメロディーがオーケストラ全体に引き継がれ、雄大に響き渡ります。綾なす山々と見渡す限り人も建物もない大平原。見上げれば澄み切った空、彼方に静かに沈む夕陽、大地を渡り頬に触れる金色の風…日本では味わえない壮大なパノラマをも、ボロディンはロシア民族の財産として目に浮かべていた、あるいは実際に目にしていたのかも知れません。
【第4楽章】
詩人の歌が平原の彼方に消えていくと、程なくその合間から、今度は明るく軽やかな調べが聞こえてきます(V楽章から切れ目なく演奏)。全編に炸裂する華やかな曲想は、勇者の宴(うたげ)の様子を描いていると言います。戦いが終わり平和が戻った幸福感を連想させる、喜びと生気に満ち溢れた音楽に、ボロディンはロシア民族の称賛と恒久の平和を込めたのでしょう。
ところでこの交響曲第2番、同時代の彼の代表作である歌劇「イーゴリ公」の影響が色濃く聞き取れます。一説には、「イーゴリ公」に入り切らなかった珠玉の音楽が数多くこの曲に流れ込んでいるとか。特にこの楽章からその事実をより強く察することができます。鮮やかな衣装をまとい、くるくると回転する女性の踊り、元気一杯に飛び上がる少年達の踊り。外では馬を駆ったゲームも始まって…おっとっと、何やら酔いに任せて男どもが武勇伝を語り始めた…こんな笑顔と歓声に満ちた賑やかな宴席を想像させてくれます。またロシアと言っても、何か東洋風の調べがそこかしこに聞かれ、我々にも大変耳馴染みのあるものになっています。
演奏会のフィナーレを飾る絢爛たる音楽ですが、演奏は最後まで気を抜けません。この楽章もまたスピードとノリに遅れをとったらアウトです。
―-誰ですか、舞台上の緊張と疲労で「飲まなきゃやってらんないよ」なんて弱音を吐いている人は?終わると宴席が待っているはず?ですからもう少し頑張って下さい。
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